町名の由来
 
1.「町名」の由来

~江戸時代の瑞穂区
江戸時代に名古屋城ができ、城下町もつくられ、名古屋が栄えはじめた。
万治年間(1658~1661年)から尾張藩士兼松源蔵と浪人小塚源兵衛が、昭和区から瑞穂区にかけての荒れ地を開墾し、田畑にした。名古屋新田である。
瑞穂区は、田畑の広がる農業地域であり、熱田や城下町へ農産物を供給していた。

~明治時代「瑞穂」の地名誕生
明治元年九月、明治天皇が都を移すため、京都から江戸(東京)に向かわれるとき※八丁畷(はっちょうなわて、河岸一丁目)で一服された。収穫に励む農民の姿をご覧になったとき、岩倉具視が稲穂を捧げて天皇にお見せになった。このときの感激と、稲作がよく実ることを願ってこの名前がつけられたのではないかと思われる。“瑞穂”という言葉には、「みずみずしい稲穂」という意味がある。
明治九年(1876年)、当時の県令(知事)安場保和(やすばやすかず)によって、瑞穂団地の七村と名古屋新田が瑞穂村となった。その後、いくたびかの組織編成が行われた。

~瑞穂区誕生
太平洋戦争末期の緊迫した中、昭和十八年十二月十八日、臨時市会に緊急議案として提出され、「瑞穂区」として誕生した。
※熱田区の裁断橋と山崎川との間の街道の距離がおよそ八丁(約873m)あったので、この間のことを八丁畷といった。江戸時代には、松並木の巨木が生い茂り、昼間でもさびしいところであったという。

2.汐路学区

【石川町(いしかわちょう) 】
現在の山崎川は、昔「石川」と呼ばれていたもので、その川沿いであるこの地に石川町の名が残されている。現在、山崎川にかかっている石川橋、石川大橋の名もその名残りのひとつである。

【御莨町(おたばこちょう) 】
昔、この付近一帯は良質のたばこが栽培されていたようで、石仏(いしぼとけ)たばこの名があった。この莨(たばこ)を尾張藩に献上したことからつけられた。

【大殿町(おとどまち) 】
.村上神社の南のところに「御家人(ごけにん)」が住んでいた。「御家人」というのは武士の中でも位の低い人だが、このあたりに住んでいる貧乏なお百姓さんから見れば、殿様のように見えたと思われる。そこで、”大殿”の敬称が捧げられ、これが地名となったものである。

【汐路町(しおじちょう) 】
鳴海や星崎あたりのお百姓さんが海の水から塩を作って、笠寺の近くにある「戸部(とべ)」というところに売りに行った。そして、その塩がカマス(むしろの袋)に入れられ、塩付街道を経て、馬に積んで信州(今の長野県)の方へ運ばれた。汐路という名前もこの塩付街道にちなむと思われる。

【桜見町(さくらみちょう) 】
昔、この付近の山には、桜の木が多く、花見に訪れる人が多かった。現在の桜山町が文字どおりそれを表しており、桜見町は桜山に隣接している。

【佐渡町(さわたりちょう) 】
現在の瑞穂通は、その昔、沢や沼地の多いところであった。区役所の東あたりから、西側(高田町)へは、橋を利用して渡ったといわれている。
他の説としては、この付近は御器所台地の一画であったが、その台地にも低いところがあり、十五軒の地元民が水田を耕作していたといわれ、猿も渡ったということから、“サワタリ”の語源ができたともいわれている。

【川澄町(かわずみちょう) 】
寛永十六年(1639) 、尾張藩士川澄平左衛門が藩主から名古屋新田内に賜った土地が川澄新田と呼ばれていた。平左衛門は、町奉行、国奉行を歴任し、七百石を領した人物である。

【松月町(しょうげつちょう) 】
昔、この付近一帯は松林で小高い山となっていて、松と調和する月の出の景色がすばらしく、有名であったといわれている。このことから名づけられたという。松と月とを組み合わせた風流さがこの地名にはある。

【洲雲町(すぐもちょう) 】
この付近一帯は黒土で、苗木を育てるのに大変いい土であった。この黒土のことを洲雲というところから、この名がついたといわれている。

【高田町(たかだちょう) 】
本願寺村に対してつけられた村名で、如来寺という真宗高田派の寺があったところからつけられたといわれている。平安時代末期に高田四郎重家が、現在の御剱小学校の位置に「高田城」を築いて、自らの居城としていたことも町名由来に関係あるものと思われる。

【駒場町(こまばちょう) 】
この付近一帯は馬の運動や飼育に適した野原であったことから、この名がつけられた。馬場は大変広くて「長馬場」といわれ、北の方は今の向陽高校の南側に大きな池があり、それが終点だったそうです。

【東栄町(とうえいちょう) 】
昔、このあたり一帯に十五世帯が住み、俗に十五軒家といわれていた。郡道の東の方から発展し、栄えたところをとって、この地名が起きたといわれている。

【中山町(なかやまちょう) 】
昔、このあたり一帯は田園で、田園に囲まれた中に神社のある小高い山があったところから、つけられた地名といわれる。

【村上町(むらかみちょう) 】
寛文六年(1666)尾張藩士村上治兵衛が開墾した土地で、村上新田と呼ばれていた。昭和六年、瑞穂村字村上と弥富村字石川の一部を併合した区画整理で村上町となった。

【初日町(はつひちょう) 】
このあたりの丘陵から眺める日の出が美しいことにちなんでつけたという。昔、このあたりは山であって、「上山」といっていたが区画整理のときに、奥村勘右エ門氏(昭和36年~昭和55年汐路小PTA会長)が命名した。

【田辺通(たなべどおり) 】
昭和四年ごろ実施された土地区画整理事業の際、同事業の計画推進責任者が田辺氏であったので、その名をとって田辺通とされた。

【瑞穂通(みずほどおり) 】
「瑞穂」と同じような由来に立つものと思われる。現在は、商店街が立ち並び、活気を呈している。

●出典
名古屋瑞穂ライオンズクラブブ
 「瑞穂の史跡」
瑞穂フォーラム社
 「瑞穂区の地名・町名考」
瑞穂区役所まちづくり推進室
 「みずほ検定 クイズDEみずほ~歴史・史跡編~ 公式テキスト」
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